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2010年3月30日

冤罪で裁判官が謝罪・・・昭和にもあった ~昭和の巌窟王事件

ローカルといってもだいぶ昔の事件です。
有名な事件ですから「巌窟王」という言葉は知っていました。その冤罪の中身がどうだったかまでは関心はありませんでした。
で、5度目の再審請求が名古屋高裁で認めれたが、検察側が異議申し立てを行い一旦は取り消しになりました。が、特別抗告を受けた最高裁が検察を蹴って再審が決定し1962年12 月6日から名古屋高裁で審理が開始され、無罪となった事件です。
その時の主任判事、陪席裁判官だった成田薫氏が3月26日、100歳の長寿を全うして亡くなったと伝えています。ちょうどその日は、足利事件の菅家利和さんの無罪判決が出た日でした。それを見届けたかのように、その日の午後、息を引き取ったとのことです。

足利事件では3人の裁判官が菅家さんに頭を下げ、謝罪しましたがそれと同じような光景が、四十七年前にも繰り広げられていたということを知り、またその謝罪の深さに驚いています。名誉を回復しようと、半世紀も闘ってきた年老いた巌窟王をいたわる思いを感じ、謝罪とゆっても足利事件の謝罪とは別物だったのではないか、という感想です。

「被告人、いやここでは吉田翁と呼ぼう。 われわれの先輩が翁に対して犯した過失をひたすら陳謝する」。

ウィキペディアにはもう少し詳しく書かれています。高等裁判所刑事判例集16巻1号88頁、判例時報327号4頁、一部引用します。

「......しかしてこの間の、実に半世紀にも及ぶその無実の叫びに耳を藉(か)す者からは、被告人はエドモンド・ダンテスになぞらえられ、昭和の巖窟王と呼ばれるにいたつたのである。」

また、判決文の最後では、冤罪に対する謝罪が行われた。有罪判決は旧刑事訴訟法で行われたが、法手続上は合法であるため、人道上の観点から裁判所が謝罪するのは異例であった。判決文は「被告人」ではなく「吉田翁」として問いかけるもので、以下のように締めくくられている。

「これらの事情が相俟つて被告人の訴追をみるにいたり、わが裁判史上曽つてない誤判をくりかえし、被告人を二十有余年の永きにわたり、獄窓のうちに呻吟せしめるにいたつたのであつて、まことに痛恨おく能わざるものがあるといわねばならない。......(中略)......ちなみに当裁判所は被告人否ここでは被告人と云うに忍びず吉田翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した過誤を只管(ひたすら)陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘り克くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫び続けて来たその崇高なる態度、その不撓不屈(ふとうふくつ)の正に驚嘆すべき類なき精神力、生命力に対し深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である。」

・・・ 吉田翁と呼ぼう。 足利事件結末 見届けて逝く ・・・
中日新聞2010.03.29
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・・・・
 吉田さんの再審で向かって右側に座った元判事の斎藤寿さん(九二)=川崎市=は語る。
 「合議の内容は明かせない。ただ判決文はだいたい、主任判事が起草していた」。詳細な説明こそ避けたが、成田さんが司法への不信感をぬぐおうと試みた姿は鮮明に残っていた。

給油中断は他国の負担に
冤罪で裁判官が謝罪・・・昭和にもあった

足利事件結末 見届けて逝く

前夜式で献花をする参列者=28日夜、名古屋市内の教会で
元名古屋高裁判事成田薫さん前夜式
弁護士の孫「繰り返さぬ」

 強盗殺人事件で無期懲役の判決を受け、五十年間無実を訴えて「昭和の巌窟王」と呼ばれた故吉田石松さんに無罪判決を言い渡し、二十六日に百歳で死去した元名古屋高裁判事成田薫さんのキリスト教式前夜式が二十八日、名古屋市内で営まれた。無罪を出した一九六三(昭和三十八)年の再審で、司法の過ちを陳謝した成田さん。足利事件の菅家利和さん(六三)の無罪判決を見届けたかのように、その日の午後、息を引き取った。(社会部・安田功)
 「被告人、いやここでは吉田翁と呼ぼう。
われわれの先輩が翁に対して犯した過失をひたすら陳謝する」。菅家さんに頭を下げた宇都宮地裁の三判事と同じ光景が、四十七年前にも繰り広げられていた。
 当時の本紙などによると、無期懲役の判決を受けた吉田さんが釈放された後の六三年だった。成田さんは名古屋高裁の再審では主任判事を務め、向かって左側に着席した。判決文は逮捕の決め手となった証言者の偽証やアリバイを認定し、無実を証明していった。そして最後の言葉は、名誉を回復するため、半世紀も闘ってきた老いた巌窟王をいたわる思いがあふれていた。
 吉田さんの再審で向かって右側に座った元判事の斎藤寿さん(九二)=川崎市=は語る。
 「合議の内容は明かせない。ただ判決文はだいたい、主任判事が起草していた」。詳細な説明こそ避けたが、成田さんが司法への不信感をぬぐおうと試みた姿は鮮明に残っていた。
 成田さんは名古屋地裁を振り出しに同高裁などを経て、福井地裁と岐阜地裁の所長を歴任。退官後は日本尊厳死協会理事長を務め、九十五歳までテニスを楽しんだ。
 名古屋市で営まれた前夜式には親族や法曹関係者ら二百五十人が参列し、在りし日の成田さんをしのんだ。
 「巌窟王を二度と出してはならないとの思いで判決を出したはず。もう過ちを繰り返してはいけない」。孫で弁護士の真さん(三一)は穏やかに笑う祖父の遺影が置かれた教会でそうつぶやいた。

昭和の巌窟王事件
1913(大正2)年、愛知県千種町(現名古屋市)の路上で、男性が大工道具や尺八で殴られ殺害され、現金1円20銭が奪われた事件。ガラス工場勤務の吉田石松さんは強盗殺人罪で無期懲役判決を受けた。
23年間服役後、63年に再審で無罪が言い渡され、9カ月後に84歳で死去。冤罪(えんざい)を題材にした仏小説にちなみ「昭和の巌窟王」と呼ばれた。
無罪の判決を受け両手を上げて喜ぶ吉田石松さん㊥=昭和38年、名古屋高裁で


投稿者 hal : 2010年3月30日 05:46

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